陸上競技


今日、西谷様から蛭川先生の写真をご提供いただきました。
その中に蛭川先生の著書『新落伍教師』から名大に関する部分の写真がありました。蛭川先生がいかに陸上が好きであったかが伺われる大変貴重な資料だと思いましたので、原文のままここに紹介させていただきます。
注)先生の著書には他に
 ・数学の才能教育
 ・陸上競技インターハイ廿三年史
 ・落伍教師
 ・続落伍教師
 ・新々落伍教師
  があるようです。

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156 赤 の 他 人

 昔の学生とどう違うかと、よくきかれる。多少の違いはあるが、本質的には人間は変っていない、と俺は答える。だが俺の環境に関する限りでは、大違いである。
 松高時代は、俺の出る教室の生徒は勿論の事、出ない教室の連中まで大抵顔を知っていた。彼等は身内という感じで、会えば何かと言葉を交したものである。だから学校の中を歩くと、至る所から声がかかって大変だった。今は違う。こんな大人数を相手にしては、いくら俺でも顔の覚えようがない。顔を覚えないから身内ではない。他人である。だから構内を歩いても、どこからも声がかからない。赤の他人の群をかき分けて歩いているのは面白くないが、その代りちっともうるさくない。こういう気安さもいいもんだな、と思う。但し陸上競技部員など例外もある。その陸上競技部には少し触れなければならぬ。


157 陸上競技部の誕生

 俺が愛知学院に来た頃は、部など出来ていなかった。運動場とは名ばかりの猫の額程の空地は、愛知高等学校の野球部の練習場で、陸上競技をやる余地など全くなかった。授業時間中ならあいているかと思うと、高校と中学の少なくも二組が、一杯になって体操に使っているので、割り込めない。だから俺でさえ、授業が終ってから野球部の連中の出て来るまでの、僅かのすきまを狙って、あわただしく砲丸円盤走高跳などをやるだけで、我慢する外はなかった。従って部員を作る事など望むべくもなかった。併し不思議なもので、その中に一人二人と不自由な練習をやる者が出て来て、東海学生選手権にも出るようになった。


158 名古屋大学運動場

 昭和34年名古屋大学教養部の数学の非常勤講師を頼まれた。教養部が昔の八高である上に、そこに元はなかった二百トラックがあることに目を付けた俺は、講義よりは練習の嬉しさでそれを引き受けた。だから37年、東山の丘陵地帯に出来た校舎に、先ず文科系が移った時、そこに作られた400mトラックが使える喜びは実に大きかった。
 追々部員と顔馴染になると、試合にも顔を出すようになる。当然遠征について行くこともしばしばで、行先は東京、大阪、松本、福岡と広範囲に及んだ。年末の合宿に餅搗をやった事が数回あるが、その餅搗は最初は俺が指導したものである。その中に、俺が名古屋大学の前身八高の出身者の故を以て、陸上競技部の大先輩に祭り上げられ、コンパとなれば必ず顔を出さねばならなくなった。
 さてこの名大の400mトラックは愛知学院から近い。練習場のない愛知学院の陸上競技部員は、俺の顔もあって、ここを借りて練習するようになった。こうなると目に見えて力がついて釆て、東海学生選手権の六位までに入賞する者が現れるようになった。
 この地区では中京大学の強さが抜群である。その選手が各種目に3人立ちはだかっているので、上位入賞するにはその一角を崩さねばならない。これは骨の折れる仕事だったが、後述のように学院に競技場が出来てからは、練習量もふえ、追々その壁を破る選手も出るようになった。そして54年には待望の優勝者を生むに至ったのである。
 一方歯学系の全国大会があって、愛知学院は初参加からかなりの成績を収めていたが、段々強くなって45年にはとうとう優勝してしまった。

159 俺 の 屋 敷

 愛知学院は曹洞宗の学校だから、学長を初め理事と名の付く者は皆寺を持っている。
その中の実力者成田芳髄氏の寺は、名古屋市の東隣の日進村にあった。この人が学校を狭い市街地から日進村の広い丘陵地帯へ移す計画を立て、村の地主連を口説いて土地を売らせた。土地といっても殆どが山林で、低地の一部だけが田であった。随分苦労したようだが、結局15万坪程を一まとめにして手に入れることが出来た。ここまではそう珍しい話ではない。驚かされたのはその後の計画だ。
 先ず第一に陸上競技の400メートルトラックを作り、続いて隣にサッカー場、その隣に野球場と、追々拡げて行くという。昭和44年5月グラウンド新設委員会が出来て、俺は委員に任命された。そしてトラックの建設段階で何度も現地へ呼び出されて、施工者から相談を受け、トラックの設計について色々意見を述べた。工事が着々進行し、遂にそれが完成した時、それは陸上競技連盟から、第三種公認競技場として認められることになった。45年秋の事である。そこは山の中の人里離れた所で、練習に行ってそこに立つと、「あゝ、これが俺の屋敷だ」という喜びを、しみじみ味うことが出来た。
 それにはこういういわれがある。
 俺は若い頃、家を建てたら屋敷内に400トラックを設けたいと夢想した。そんな物は天竜川の河口あたりでなければ出来ないだろう。併し夢は棄てられなかった。とやかくする中に欲望が現実的になり、小さくなって、せめてテニスコートでもと思うようになった。テニスコートがあれば、投テキや跳躍ぐらいは出来る。
 だがやっとの思いで家を手に入れた時、その土地は僅か九十坪で、俺の夢ははかなく消えた。
 その夢に代る物を与えてくれたのが成田理事である。だからそのトラックを踏む度に、「ああこれが俺の屋敷だ」と感激に浸ったのも、無理ではなかろう。
 ここは本校から10キロ以上離れているので、陸上競技部員も時々車で来る程度で、俺の独占に近かった。併しこのトラックのお蔭で部員ほ急に強くなり、全国歯学大会に六連勝という、輝かしい歴史を飾ることが出来た。もう一つ全国医歯薬獣医大会という妙な競技会があって、これも47年から4連勝した。正に破竹の勢いである。所が51年には、モントリオールのオリンピックが、運悪くこの両大会と重なってしまった。これまでの六連勝と四連勝には、俺は随分骨を折って来ている。ここで手を抜いたらどうなるだろう。非常に気になったが、オリンピック至上主義の俺は、涙を呑んで二つの試合を棄てた。帰って見ると両方とも負けていたので、俺は痛く責任を感じた。しかもそれを契機に優勝に縁が遠くなってしまったのだから、くいは大きい。
続きは、『新落伍教師』の194ページからです。


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