SIA評論:歌は世につれ「若鷲の歌」、アッツ島玉砕の歌
桐山一美氏の75年前、1943年予科練入隊の思いとその経験
投稿者:佐々木インターナショナルアカデミー 代表取締役 佐々木 賢治 TEL:052-566-5526
本日2018年8月3日13時54分名古屋は40℃に達した。実に暑い。これまでの記録更新という。この暑さにまして、75年前1943年予科練入隊当時の熱い気持ちを1918年岐阜関ヶ原生まれの90歳、桐山一美氏に語って戴いたのは今年7月8日の事である。
予科練と言えば、霞ヶ浦、七つボタンで有名であるが、正式名称は「海軍飛行予科練習生」。予科練を歌った「若鷲の歌」がレコードとして世に出たのは1943年9月10日、「日蓄レコードより発売された」と云う。桐山氏が入隊の時には未だ、この歌が出来ていない事になる。この歌(作詞 西条八十 作曲 古関裕而)は映画『決戦の大空へ』の主題歌であり、映画が封切られたのは1943年9月16日。出演者には有名女優、原節子の名前も掲載されている。
1943年4月18日には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アッツ島の戦いは5月12日に始まり5月29日玉砕。このアッツ島玉砕に対して「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」が作られている。このアッツ島玉砕の歌、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」は朝日新聞の選定歌。ここまで読まれた方は、朝日新聞選定歌と云う事実に驚かれたのではと思う。
特に戦後の論調を見ると信じられない方も多いと思う。このため、この歌の正式名称と作詞、作曲家も含めた情報を記載し、10番迄ある歌詞も二番まで引用する。
桐山氏は1943年第13期海軍甲種飛行予科練入隊し、松山、宇和島、宇佐各航空隊で軍務に服し、1945年終戦、愛媛県南宇和郡西外海村から復員帰郷されている。この事からも理解戴けると思うが、予科練は既に当時日本各地にあったのである。
桐山氏は1943年第13期海軍甲種飛行予科練入隊し、松山、宇和島、宇佐各航空隊で軍務に服し、1945年終戦、愛媛県南宇和郡西外海村から復員帰郷されている。この事からも理解戴けると思うが、予科練は既に当時日本各地にあったのである。
桐山さんは敗戦後の1946年充員召集命を受け特別輸送艦箕面乗員として内地引揚輸送に従事されている。その後は日本通運に入社され定年迄勤務され、平成元年より国内各地慰霊、海外中国、東南アジア戦績慰霊巡拝を続けられ、今年三十年目となる方である。
人の人生には時代、周りの環境によってどうにもならない事も多い。折々の気持ちを託し詩が紡がれ、歌が奏でられて来た。そういう意味では戦時歌謡、軍歌もまた一面の歴史である。ここで少し、当時の時代背景を追加したい。
日米戦争に至る半世紀の時代背景
日清戦争(1894年7月25日-1895年3月) 日露戦争(1904年2月8日-1905年9月5日)
日露戦争終結後 西進、アジア進出を目指す米国とアジアでの存在感を高める日本との対立
フィリピン:1898年、米西戦争の結果米国が植民地化、武力弾圧。その際(1899年-1902年)百万人を超える多数のフィリピン人が殺されている。
ハワイ:米国が武力で侵略、併合し1898年ハワイ共和国(布哇共和国)併合
第一次世界大戦後のベルサイユ条約と国際連盟(1920年1月10日)
日本は人種平等条項提案 三分の二(賛成11票、反対5票)を獲得するが米国大統領ウイルソン氏が議長権限で否決
米国日本人移民の禁止:1924年「移民法」で日本からの移民は全面禁止
主義主張を表す戦争の呼称(大東亜、日米、太平洋、第二次世界大戦)と戦前の新聞、世論
時代背景と日本のメディア、国民世論:ほとんどの新聞は各戦争(日清、日露、大東亜)勃発前対外強硬論を唱えた。朝日新聞はドイツ贔屓で有名で、天声人語は戦争中「神風賦」。現東京新聞は、長年の赤字に苦しんだ後、1933年現中日新聞の傘下に入り対外強硬論、軍国主義的論調に転換し8年後の1941年に黒字化。(朝日、東京新聞等のこの豹変も浮世の常)
実は、戦後もっぱら伝えられる話とは違い、太平洋上の日米海軍航空兵力を比較するとミッドウエー敗北前は日本が数的に圧倒的に有利であり、ミッドウエーの大敗後も実は日本が数的に優勢であった。事実日本の当時の航空機生産能力は米国、ドイツに次ぐ生産大国で日独米の年間生産機数は1942年(9、16、49千機)、43年(17、26、92)、44年(28、40、101)である。(戦後米国が日本の航空機生産を禁止した理由はここにあると思っている)
しかし、1943年秋9月以降米国新空母が続々と投入され、1944年6月のマリアナ海戦では、米軍関係者は日本軍航空機撃墜が七面鳥撃ちTurkey Shootと揶揄するほど容易となっていた。そのマリアナ海戦でも日本軍は数的には世に伝えられる程劣勢にあった訳ではない。軍の運用、訓練、戦略も含め質的側面により劣勢であった事を認識する必要がある。そういった中生まれたのが1944年10月の神風特攻隊である。通常の敵空母攻撃では日本の航空機が撃墜されるばかりで戦果を挙げる事も、無事帰還する事すら困難な状態にあったのである。
しかし、その最初の戦果は、10月25日午前10時49分、敷島隊指揮官の関(戦死後中佐)以下6機が護衛空母セント・ローを撃沈し空母の無力化に成功した戦果であったが、肝心の突入予定の栗田艦隊が突然反転し、この特攻戦果拡大と云う作戦目的は達成されなかった。
しかも、神風の正式な読み方は「しんぷう」であるが、当時のニュース映画が誤って「かみかぜ」と読み上映したため「かみかぜ」が定着したと云われている。
時代背景として忘れてならないのは朝日新聞の戦前の神風号、更に現在「天声人語」とされる朝日新聞朝刊一面下のコラムが当時は「神風賦」と題されていた事である。73年目の夏を迎えるに当たり志願した当時の若者に慰霊と感謝の気持ちを捧げたいと思う。
投稿者:佐々木賢治
【オピニオン2018年8月号掲載】
https://singerpro.me/opinion.html