元 松高教授の奔放人生 蛭川幸茂さん
車走らせ、今なお陸上指導
元松高教授の奔放人生
愛知学院大陸上競技部監督 蛭川 幸茂さん(81)
【ひるかわ・ゆきしげ】
東京生まれ。名古屋市新道小卒、愛知県立明倫中4年終了、八校、東大理学部数学科卒。松本高校講師、教授、長野県新村小代用教員、同校教諭から29年愛知学院大助教授、32年教授、54年定年退職。同大に勤務直後、陸上競技部を創設、部長兼監督、今は監督。主著「数学の才能教育」「落伍教師」「新々落伍教師」。教え子の来訪や会合、旅行、陸上競技、西式健康法などで多忙。2男1女に孫6人。
◎愉快な生き方6冊に
〈今度「蛭公随想録・新々落伍教師」なる名著を自費出版し、自分を「おれ」って・・・・・・〉
育ちが悪いから。 おれは風変わりで愉快な生き方をして来たし、周囲でも奇妙なことがいっぱい起きた。 これを書き残して人を面白がらせてやろうと思ったんだが、書いても書いても書き残しがある。 だからまた書いた。 落伍 (らくご) 教師の意味? おれは人を育てはしたが、まともに教えた覚えはないからよ。蛭公? みんながおれをそう呼ぶんだ。
〈松高の名物教授から小学校の代用教員とは奔放な・・・・・・〉
1925年、わが桃源郷松高が占領地の植民地政策で信州大学に変わっちまった。もう詰まらん。で、田舎の小学校へ逃げ出し、扱いにくい1年坊主を志願して担任した。
教科書? そんなもん使うか。指導要領もそっちのけ。野獣のようにたくましく育てた。がだ、おれを雇った校長が去ると、周囲の風当たりが強くなり、4年でさらば。
〈陸上とは切っても切れぬ縁がおありとか〉
60数年の付き合い。始めたのは八校時代。就職した松高に300mのトラックがあり、すぐ陸上部の部長。国体? 3回出場。
〈いまは?〉
愛知学院大の監督。体調がいいと週2回、夕方2、3時間指導して。自分でも朝1時間半ほど、走ったり跳んだり投げたり。グラウンドが郊外の日進町でしょ。65才で免許取り、マイカーで。教習? 1ヶ月で。1回落ちただけ。視力だって・・・・・・新聞も辞書も。眼鏡持っていない。100mで20秒切れる。瀬古のマラソンより速い。五輪の陸上は欠かさず見に行く。
◎ 五輪観戦は既に5回
〈五輪通いはいつから?〉
1939年の東京以来。入国できなかった1955年のモスクワを除き、既に5回。行けば8日間、朝から晩まで全部、克明に研究。小便にも立てなくて困るんだ。
〈陸上を研究して〉
双眼鏡で見て「これだ、これが新しいんだ」と悟る。写真? 写さない。目に収める。ノートはとるが、何もまとめない。報告する先もない。自分だけが認める研究業績。もったいない気もするが、人生とはそういうもんです。
〈いつもお一人で?〉
入場券や宿の確保のため、形だけ視察団とかの名前を付けることもあるが、個人旅行と同じです。不安? 車に頼るしかないロスで、40何キロ離れた宿しかとれなくてね。バスの特別運転が決まるまで心配でした。
ところが、3日目から顔や腕に4、5センチもある水ぶくれができて・・・・・・以前は炎天で何時間でも平気でしたが。陸上を怠けてるせいですな。医者にかからない主義でしょ、西式健康法を実践してっから。結局、自然に治しちゃった。
◎ 海外旅行でも放歌高吟
〈海外旅行でも変わったことしますか〉
もちろん。松高の制帽かむってく。20数年前、卒業生と一緒に作った白線入りの。成田から。これかむると青春時代に戻る。スチュワーデスは「いい帽子ですね」っていうし、旧制高校出の乗客は「どちらですか」って懐かしそうに語りかけて来る。外国で脱いだことなし。奇異に映らないんですよ。事情が分からんから。仲間で行った時も寮歌祭も。レストランなんかじゃつまみ出されるんで、ホテルの一室を借り切って。
〈五輪以外の旅行でも?〉
この秋、松高時代の教え子20人と南洋へ行ってきた。インドネシアとシンガポール。おれのほかに2人、まねして白線帽かぶってた。うち1人は校名入りの陣羽織着てやがって。負けてならじと、おれは校名入りのふんどししてった。毎年、寮歌祭で配られる手ぬぐいにひもつけて。寮歌祭は今、全国38カ所で開かれるが、おれは毎年、5カ所ぐらい回る。寮歌祭荒らし? そうだ。生きがいの1つ。ふんどし? そうそう。ホテルで毎晩洗うんだが、南洋は一晩で乾かん。翌日はノーパンならぬノーふん。いやしてたかな。今春の台湾旅行では、寮歌祭でふんどし踊りやって来た。
(大鹿 八郎編集委員)
資料提供:西谷 正氏
投稿:2024年1月28日