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恒例の八高・松本高OB対抗戦


白線帽とマント姿でバンカラ生活をおう歌した旧制高校生たちが28日、愛知淑徳大グラウンド(愛知県・長久手町)に集う八高(名古屋)と松本高校のOBによる恒例の陸上、サッカー対校戦だ。

この大会の〝顔"として毎回参加し、げきを飛ばす元教授がいる。かつて松高で数学を教え、戦後は愛知学院大に移って一貫して陸上競技を指導した名古屋市名東区梅森坂、蛭川幸茂さん(91)、通称ヒルさん。

名古屋に育ち、苦学して八高、東大に進んだが、好きな陸上の指導を受ける機会に恵まれず一人で砲丸投げなどの練習を積んだ。

1926年(大正15年)松高に赴任。 陸上部があると知り歓喜したヒルさんは、陸上部の部長を請け負う一方で自らも練習に参加した。「選手の3倍はやったよ。 やっと本当の高校生になれたと思って」

赴任当時、22歳。自分より年上の学生が何人もいた。「もともと先生という自覚もなかったから、一緒になって街の真ん中で寮歌をがなったりした」。学生たちと友達付き合いしながら「バッキャロー」を連発する指導のかいあってか、松高陸上部はインタハイで優勝するまでに。

その影響力は、陸上部だけにとどまらなかった。終戦直後の教え子の一人である作家の北杜夫さんは著書「どくとるマンボウ青春記」の中で回想している。

〈身なり風体をかまわぬこと生徒以上であった・・・・・・。髭(ひげ)づらで容貌(ぼう)は野武士のごとくである。しかし、その目はすこぶる優しい。 旧制高校を愛し、高校生を愛したこと、この先生に比すべき者はあるまい〉

1950年(昭和25年) 学制改革で旧制高校は消えた。

ヒルさんは信州大の教授になるはずが、「(旧制))高校がなくなっては、自分のような人間に町の学校は務まらない」と村の小学校の代用教員に。受け持ったクラスでは体育の授業を増やし、よそのクラスの子供たちをうらやましがらせた。

4年後、理解ある校長が転勤したためここも飛び出し、誘いを受けた愛知学院大に移る。 新設された400mトラックに「ああ、これがおれの屋敷だ」と感激し、1979年の退職まで陸上部長を務めた。

陸上競技の観戦にはいつも、ボロボロになった松高の白線帽をかぶっていく。永遠の高校生を任じ、陸上を愛し今も自宅近くの公園で一人砲丸を投げるヒルさんは愉快げに言い切った。

「いい学校とは••••••いい運動場のある学校だよ」
(臼田 信行)
資料提供:西谷 正氏

投稿:2024年1月28日



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