蛭川 幸茂氏 ご逝去 名古屋大学
陸上をこよなく愛しておられた蛭川先生
蛭川 幸茂(ひるかわ ゆきしげ)氏は名古屋大学で数学を教えておられた先生で、学生にとても評判の良かった先生です。
陸上をこよなく愛し、オリンピックでも解説されたことがあるとかで、とても有名な先生でした。
そんな先生も平成11年1月29日に逝去されました。95歳でした。
私は、蛭川先生の飾り気のないまっすぐな人柄を記憶に留めたくて、平成11年2月17日(水)の朝日新聞夕刊「にゅうす らうんじ惜別」に掲載されていた記事を原文のままここに紹介します。
※ 写真:寮歌を熱唱するヒルさん(右)=93年7月11日、長野県松本市の寮歌祭で / 遺族撮影
自由を愛したヒル公
「バッキャロー」が口癖だった。ベランメエ調の数学教授。拘束の少ない旧制高校を心から愛し、生徒から「ヒル公」のあだなで慕われた。
長野県松本市の旧制高校記念館に、当時の授業風景をパネルなどで伝える「ヒル公」のコーナーがある。「どくとるマンボウ青春記」にもこの名前で登場した、作者で松高OBの北杜夫さんは「松高で最も愉快な名物教授でした」と懐かしむ。
東京生まれ。東京帝国大学理学部を卒業し、1926年、松高に赴任した。身なりが汚く、物売りと間違えられて追い払われる初日だった。
落第点を付けなかった。名前を書いただけで50点。「君たちのような有能な人材を落第させるわけにはいかない」という理由だ。
陸上競技部の部長だった。荒縄を帯び代わりにした着流し姿で、寮歌を高らかに歌いながら部員を引き連れて街を練り歩いた。遠征先の旅館では裸踊りをして部員と騒いだ。陸上競技のスタートピストルを手に、明け方、熟睡している部員を起こしたことも。
戦後、6334制の施行で松高が信州大学になると、「自由に振る舞えない」と教授のいすをあっさり捨てた。
「無垢な連中を育てる方が性に合う」と、50年、松本市郊外の小学校の代用教員に。そこでも教科書や指導要領をそっちのけにし、校長と折り合わず。4年でやめた。
54年、知人の紹介で名古屋市近郊の愛知学院大学へ。陸上競技部を創設して、25年近く、監督、部長を務めた。
「青春のもやもやなんて、グラウンドでヘトヘトになるまで汗を流せば吹き飛んでしまう」が持論だった。
寂しい顔をすることもあった。「優ばかりほしがる学生が多い。旧制高校生は点数なんて気にしなかった」
青春時代をおう歌する「寮歌祭」がどこかで開かれると、必ず顔を出した。80歳を超えてからも100m走で20秒を切れるのが自慢だった。
3年前、教え子らが発起人になって妻久子さん(91)の米寿の記念式を開いたとき、約100人が集まった。出席できない断りのはがきも800通。いかに慕われていたかをうかがわせた。
生前、「おれの死んだ顔なんか見なくていい」と口にした。葬儀・告別式は開かず、1月31日、肉親らだけで密葬を営んだ。形式主義が大嫌い。墓もなく、戒名もない。自宅の祭壇には松高の制帽だけが置いてある。
(社会部・小泉 信一)
投稿:2006年10月21日
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