マラソンランナー 中山 竹通氏講演会
本日、愛知学院大学にて中山竹通氏の講演会がありました。
中山氏は、88年ソウル、92年バルセロナオリンピックでマラソン4位に入賞した選手です。
当時、無名の選手からトントン拍子に日本の頂点に上り詰めたランナーとして知られていますが、中山氏のお話を伺って、単に才能が開花したのではなく、開花するために相当な努力をしてこられたことを知り、感銘致しました。
中山氏の名前を初めて知ったのは、名古屋30キロロードレースで3位に入賞した時でした。当時私は瑞穂の会場で中山氏がゴールしているのを見ていますが、無名に近い選手でしたので、ほとんど関心がありませんでした。
しかし、84年福岡国際マラソンで2時間10分0秒で優勝したレースは衝撃的で、正にそのレースが無名の中山から日本を代表する中山になったレースと言っても過言ではないかと思います。一躍世間の注目を浴びたことは言うまでもありません。
それからは次々と記録を更新し、当時日本人トップランナーとして名を馳せていた瀬古俊彦選手と肩を並べるランナーになりました。
瀬古選手との直接対決はオリンピック以外では見られませんでしたが、ソウルオリンピック前年の87年福岡国際マラソンは今でも昨日のようにしっかり覚えています。
スタートからいきなり5キロ14分台のハイペースで先頭に立つと、ゴールまで独走してしまいました。見事なレースというよりは、むしろ驚異を感じるレースでした。
他のマラソン大会に於いても、スタートから果敢に飛び出すという目を見張るレースをされ、中山氏の計り知れない強さを思い知らされたものです。
当時このことに関して、私は「中山氏は遅いペースには我慢できない。体が自然に前へ前へと出てしまうランナーである」と勝手に思いこんでおりました。
しかし、今日、お話を伺って、実はそうではなくて、レースを打算的に考えておられたことを知りました。
マラソンをお金を稼ぐ手段として捉えており、「いきなり先頭に立つのも、会社の社長に喜んでいただけるように、裏を返せば、給料を多くいただけるように」との意図があったというのです。
中山氏がハングリー精神からはい上がってきたランナーと言われる所以を垣間見たような気が致しました。
陸上で生計を立てることがいかに大変であるか、日本のトップに立った選手でさえ、経済的な面でかなりの苦労を強いられてきていた、だからこそ、あれだけ強くなられたのか。
高校卒業後、無職を経て鉄道整備会社で仕事をしておられたようですが、精神的苦痛のある職場から抜け出したい一心から自ら未来を切り開くために陸上に傾注されたようです。
高校時代5000m16分台ランナーから世界の超一流ランナーに成長されましたが、生活の基盤である陸上は、けっして楽しいものではなかったようです。
最後に「中山氏は淡々と話をしておられたが、哲学が語られており、超一流選手はやはり違う。感銘した。」と講演会を締めくくった高田会長の言葉も印象に残りました。
講演会が終わって、個人的に立ち話した所では、中山氏が、「私は練習は好きではなかった。走るのが好きなのは高橋尚子選手ぐらいで、一流選手は誰でも練習は嫌いですよ」と私に語った言葉が忘れられません。
あれほどの優秀なランナーでさえ、日々の練習はつらいものであったのかと感じ入ってしまいました。
投稿:2005年2月26日
安藤秀樹