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14キロ付近の弘山晴美選手

名古屋国際女子マラソンの録画TVを昨日見ました。
大変見応えのあるレースに感動しました。

私は当日ビデオカメラを携えて地下鉄で移動しながら応援していましたので、先頭集団のレース展開ははっきりわかりませんでした。

渋井選手は終始独走態勢で走っているとばかりに思っていましたら、録画TVで渋井選手はいったんは8キロすぎで第2集団に吸収されていたことを知りました。
しかし10キロすぎから再び、果敢に前に出ると、後続集団は引き離されていきました。

私は国立名古屋病院(31キロ付近)で彼女が先頭で走り過ぎていく姿を目の当たりにしましたが、それから2番手の弘山選手が現れるまでには1分少々の時間が経過しました。あまりの大差と渋井選手の快調な走りから、「今日は渋井選手の優勝だな」と確信しました。


私がゴール地点の瑞穂陸上競技場に到着したときは、すでに16位までの選手がゴールしていましたが、優勝が弘山選手であることを知ったときには、大変びっくりしました。

「どこで逆転したんだろう」と思いました。録画TVを見る限りではラスト3キロ地点においても二人の間には相当な距離がありますので、逆転は困難です。「一体どこで逆転したのだろうか」と益々興味が湧いてきました。残り2キロから徐々に差を詰めていたようですが、それでもまだまだ逆転するには距離があるように思いました。

しかし奇跡は起こるんですね。残り1キロで追いつかれると、劇的なドラマが演じられました。
渋井選手は一気に抜かれてしまいました。
渋井選手は抜かれた後も必死で弘山選手に食らいつこうとします。
テレビに映し出される彼女の必死の形相から負けたくないという気持ちがひしひしと伝わってきました。
しかし、無情にも差は広がっていきました。

私は昨年の6月に日本選手権の観戦に出掛けました。
その時に女子5000m決勝があって、福士加代子選手が2位でゴールしましたが、弘山選手は14位の15分52秒、渋井選手は22位の16分13秒でした。平凡な記録に二人とも本当に日本のトップクラスの選手なのかと疑いたくなりましたが、「まあ、こういうこともあるさ」とあまり気にはとめませんでした。

レース後にダウンしている弘山選手と渋井選手を偶然見かけました。
弘山選手が走りながら、渋井選手に「がんばって!」と激励の言葉を掛けると、渋井選手は立ち止まって、丁寧に「ありがとうございました」と( 実際にそのように話されたかどうかはわかりません。)
ぺこりと頭を下げて走り過ぎていきました。
「お互いに仲がいいんだ」という印象を受けました。

しかし、名古屋国際マラソンのラスト1キロの勝負にかける二人の必死の形相は、あの日の彼女らの表情とは全く違いました。

弘山選手はゴールまで中距離ランナーのような走りで飛ばし、見事に初優勝の栄冠に輝きました。

弘山選手からは「何事も最後まで諦めてはいけない」と教えられました。
渋井選手は残念ながら2位という結果に終わりましたが、果敢に挑戦する姿に心を打たれました。

一昔前の話になりますが、男子マラソンの瀬古利彦選手は、マラソン大会に出場すれば必ず優勝するという神話がありました。
しかしオリンピック選考会を兼ねた1988年の「びわこ毎日マラソン」ではなんとか優勝しましたが、30キロ過ぎてから失速し、顔は苦しそうな表情に変わり、後ろを振り向くなど、弱気になった瀬古選手の姿を初めて見ました。
その時に当時ライバル選手であった宗さんがテレビの解説で「人間瀬古を初めて見た」と語りました。
それほど当時の瀬古選手は群を抜いて強いマラソンランナーでした。
しかしその日は瀬古選手の神話が崩れた日でもありました。

渋井陽子選手は、マラソンで日本記録を樹立した実績ある選手ですが、瀬古選手と違って、時々レースに負けますから、必ず優勝するという神話がありません。
この点に関しては彼女にとっては、非常に気持ちが楽であるように思います。
そういう意味では負けるということはかえって良いことであるかも知れません。
挑戦者の立場で伸び伸び走れる環境にあるわけですから、いつかやってくれるのではないかと、今後の彼女に期待したいと思います。

投稿:2006年3月20日


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