競歩の先駆けで、日本の一線級として活躍していた蟹江修氏
月刊陸上競技 1981年3月号 P150〜P155から
前書き
令和4年12月20日に日本陸上競技・競歩の先駆けで、昭和43年〜昭和56年に日本の一線級として活躍した蟹江修(かにえおさむ)氏が81歳で亡くなった。
私は、亡くなられたことを奥様からの寒中見舞いで知り大変驚いた。
私は高校時代、陸上競技が大好きだったので、月刊陸上競技と陸上競技マガジンを愛読していた。蟹江修氏の活躍はその雑誌を通して知っていた。
当時、蟹江修氏は、日本のトップ選手だったから私には雲の上の存在だった。
だから、まさか将来、蟹江修氏と年賀状を交わす間柄になるとは夢にも思わなかった。
私が昭和63年にスポーツ医・科学研究所に就職し、平成7年4月に蟹江修氏が膝の故障で入院してきた。
それがご縁で蟹江修氏と親しくなった。
昨日、スポーツ医・科学研究所の松井秀治所長の雑誌投稿記事を探していたら、偶然にも蟹江修氏の記事を発見した。
ネットで「蟹江修」と検索しても、この偉大な選手の情報がヒットしないのをとても残念に思っていた。
だから、現在活躍している競歩の選手に日本の競歩のさきがけとして活躍していた蟹江修氏の存在をぜひ知っていただきたいとの思いで、発見したインタビュー記事をワープロに打ち直して、ネットに公開した。
なお、松井秀治所長の長距離選手のランニングフォームを分析して解説していた記事が多数あったが、私の高校時代の月刊陸上競技と陸上競技マガジンはすべて処分していたので、どうしても見つけることができなかった。
【インタビュー記事を読んで】
○ おごることなくありのままを素直にインタビューで答えているのが好印象であった。
○ 日本新記録を樹立した実績ある選手でありながらも会社から優遇されていたわけではなく、通勤を練習にあてるなど工夫して地道に1人でコツコツ努力してこられた方だと知った。
○ 選手として活躍している時代にも膝を患っていたことを知り驚いた。
○ 蟹江修氏が、「練習を気にしないで飲みに行ける日が来るのを楽しみにしてるんです」と結んでいる言葉に、私と金山駅近くの居酒屋で陸上競技の話で盛り上がっていたあの日が、そういう日だったのかと感慨深かった。
投稿:2025年3月23日
安藤秀樹
蟹江修 家庭訪問インタビュー
今年40歳、競歩一筋
ヨーロッパ行きが夢!
愛知県平和公園の周回コースで行われた今年の元旦競歩10kmで43分30秒0の日本新記録をマークし、ますます健在の蟹江修(三菱自工名古屋)。40歳となり、本人は「もうきつくって・・・」と言うが、ヨーロッパで本場の競歩を見てくるまではやめられそうにもない。愛知県東海市の蟹江選手宅を訪問し、競歩人生の一端を聞いてみた。
私もフルマラソンを一度だけ完走してるんですよ
名古屋から名鉄常滑線の高速電車でおよそ30分ほど、知多半島を下って尾張横須賀駅で下車すると、蟹江選手が待っていてくれた。
「名古屋地方でも久しぶり」という真冬の冷たい雨が、小じんまりとした駅舎に降りそそぐ。
街並を5分ほど歩くと、そこはもう蟹江選手のお宅で、「お母さん、着いたよ」という御主人の声で、奥さんの玲子さんが奥からとんでこられた。
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[編集者]
名古屋で行われた元旦競歩で日本新を出されたそうで、おめでとうございます。
[蟹江]
どうも・・・。毎年ねらってやってたんですけど、出なくってね。今年やっと出たんです。
[編集者]
10kmでしたね。
[蟹江]
そうです。10kmで、タイムが43分30秒でした。これまでの日本記録は43分33秒0です。
[編集者]
東京の絵画館前コースで行われる元旦競歩はよく知られていますが、名古屋の元旦競歩というのもだいぶ前から行われてるんですか?
[蟹江]
52年からなんですよ。だから、今年で4回目ですね。元旦競歩といっても、元旦マラソンに付随してやってるんですから。
[編集者]
すると、競歩の方への参加者は少ないんですか?
[蟹江]
20人弱ですね。どうしても東京の方の大会にとられてしまうし(笑)。以前は、私も向こうの試合に出てたんですよ。
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蟹江修。今年で40歳。生年月日は「昭和16年1月3日」となっているが、これは戸籍上の生年月日であって、本当に生まれたのは、昭和15年12月23日なのだという。
昔はかぞえ年だから、生まれるとすぐに1歳。で、年が明けると2歳。「それではあまりにも・・・」ということで親がそうしたらしいのだが、「元旦生まれだとあまりにもおめでたすぎるから」と、1月3日生まれにしたのがおもしろい。
そもそもこの愛知県東海市出身で、学校も地元の横須賀小学校、横須賀中学校を卒業。中学を卒業すると同時に三菱自動車に入り、夜は横須賀高校の定時制に4年間通う。そして、三菱自工勤務も、もうすぐ25年になる。
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[編集者]
25年となると、もう表彰ものですね。
[蟹江]
ええ(笑)。最初、養成工という訓練期間が3年間あって、その後もずっと現場ですから、けっこうきついんですけど・・・。
[編集者]
現場というと?
[蟹江]
車の部品を運んだりするんですから、いわば肉体労働ですよ。
[編集者]
ところで、蟹江さんはいつごろから陸上をやってるんですか?
[蟹江]
中学時代はハンドボールをやってましたからね。陸上を始めたのは三菱自工に入ってからです。ハンドボールは好きで好きで、かなりやりましたよ。
[編集者]
じゃなぜ三菱自工で陸上を?
[蟹江]
ハンドボール部がなかったんです。で、たまたま人よりちょっと走るのが速かったから。でも最初はいつもドンジリを走ってましたよ。中学時代に陸上やってた連中ばかりでしょう。養成工の2年生ぐらいになって、どうにかついていけるようになりましたけど。
[編集者]
種目は何だったんですか?
[蟹江]
中長距離です。初めて陸上の大会に出たのが2年目の時で、確か1500mで4分30秒ぐらいだったと思います。愛知県選手権でしたかね。
[編集者]
そのあとも、中長距離ではそんなに目立つ方ではなかったんですね。
[蟹江]
ダメでしたね(笑)。ま、県で何番とかいう程度でした。競歩以外の戦績というと中日・名古屋マラソンで6位になったことぐらいですね。21歳ぐらいの時。
[編集者]
フルマラソンですか?
[蟹江]
そうですよ。完走はそれ1回ですけど、あと2回挑戦してるんです。初めてマラソンに挑戦したのがその前の年かな。一日平均20kmぐらい走ってて、「これぐらい練習やってればマラソン走れるだろう」というのでやったんです。もう何もわからないからとばしちゃって、一時は4位ぐらいについてたんですから。「これはチョロいもんだなあ」ぐらいに思いつつ・・・(笑)。だけど、30km過ぎたらガタガタになっちゃって脚が動かないんですね。そして35kmからは歩いちゃって、38kmでついにやめちゃったんです。これがくやしくって、次の年にもう一度チャレンジしたわけなんです。
[編集者]
それが6位ですね?
[蟹江]
そうです。その直後にもう1回やってるんですけど、やっぱりダメでした。
[編集者]
どうしてマラソンはそれっきりだったんです?
[蟹江]
私としてはマラソンをずっとやりたかったんですよ。だけど急に長い距離をやったもんだから足の裏が痛くって、長時間走っていられなくなっちゃったんです。
で、マラソンはあきらめました。
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マラソンの話が出たついでに、蟹江選手はしみじみと言う。「日本のマラソンの第一線選手が競歩をやれば、すぐに世界のトップクラスにいくんですけどねェ」と。
「だけど、競歩なんかやる気にならんでしょう」とも・・・。
最初は中長距離の補強の意味で競歩を始めました
学校から帰ってきた亜紀代(あきよ)ちゃん(横須賀小学校3年)、扶水代(ふみよ)ちゃん(横須賀小学校1年)の姉妹が「こんにちは」と言って客間に顔を出す。「さ、こっちへすわって静かにしてな」と言う蟹江選手は、一瞬お父さんの顔になる。
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[編集者]
すると、競歩との出会いはそのあとですね?
[蟹江]
昭和43年6月に行われた日本選手権20km競歩が初めての試合ですから、競歩を始めたのはその2〜3ヵ月前でしょうねェ。岐阜で行われて、1時間56分35秒で12位でした。
[編集者]
昭和43年というと、おいくつの時ですか?
[蟹江]
27歳です。
[編集者]
なぜ競歩を始めたんですか?
[蟹江]
陸上の雑誌を読んでたら、「競歩をとり入れることによって中長距離の記録が伸びる」というようなことが書いてあったんですよ。腰の回転がよくなって、ストライドが伸びるとかって。だから最初は補強的にやってみたんです、ただ見よう見まねで。
[編集者]
それが本職になっちゃったんですか?
[蟹江]
そういうわけです(笑)。確かに競歩をやったら中長距離の方も伸びましたよ。でも、そのうち競歩一本になっちゃって・・・。
[編集者]
43年に競歩を始めて、44年、45年、46年と日本選手権で3連勝してるんですものね。
[蟹江]
そして、47年のミュンヘンオリンピックの強化選手になったんですけど。練習のやりすぎでダメでした。
[編集者]
ダメでしたとは?
[蟹江]
最終選考会で途中棄権しちゃったんです。ヒザと腰が痛くて歩けないんですよ。どうしても行きたかったんですけどね、オリンピックに・・・。
[編集者]
チャンスだったのに、残念でしたね。
[蟹江]
それから2年間ぐらい、全く競歩から遠去かってたんです。
身体を治そうと思って。
[編集者]
まるっきり練習しなかったんですか?
[蟹江]
ジョッグぐらいはやりましたよ。あと、家に小さい子を集めて体操やったり柔軟やったり。
復帰したのが49年5月の中部実業団陸上です。まだヒザが痛かったんですけど、短かい距離ならできるということで、5000m競歩に出ました。
[編集者]
結果はどうでした?
[蟹江]
優勝しました。私は優勝の自信がないと、あまり試合に出ないんです(笑)。練習やって「これならいいだろう」というところで出るんです。だから、私は優勝の確率高いんですよ。7割ぐらいいくんじゃないですか。
[編集者]
日本新記録も数多く出してるんでしょうけど、初めての日本新はいつの試合ですか?
[蟹江]
49年10月の茨城国体です。20000mで4位だったんだけど、日本新なんですよね。でも、優勝じゃないから感激がうすれますね(笑)。
[編集者]
51年、52年のころは5000mで日本新を出したりして、乗ってた時期ですね。
[蟹江]
そうですね。51年の佐賀国体では優勝しましたし。だけど、52年の青森国体はダメだったんですよ。9月ごろ過労で2週間ほど入院しちゃって、退院して10日ぐらいで試合だったんですから。
[編集者]
そして、54年の日本選手権で8年ぶりに優勝して、今年の元旦競歩で日本新ということですね。
[蟹江]
去年はボロ負けだったんですよ。輪島で負けて、国体で負けて、日本選手権で負けて・・・。
「とうとうダメになったか」と思いました(笑)。
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ちなみに、蟹江選手の最高記録は、5000m:21分16秒、10000m:44分06秒、10km:43分30秒、20km:1時間31分14秒4、50km:4時間26分55秒4である。
会社への行き帰りと昼休みが私の練習時間です
[蟹江]
ここ4〜5年はもう苦痛ですね。
[編集者]
競歩をやることがですか?
[蟹江]
そうです。毎日練習しなきゃいかんでしょ。前から肝臓が悪くて、練習やると身体がエラくって・・・。
[編集者]
今の日課はどういうふうになってるんですか?
[蟹江]
6時半に起きて、7時20分ごろ家を出るんです。会社までは25分ぐらいですが、3つ手前の駅で降りて3kmぐらいジョッグしていきます。家から会社まで12kmくらいですけど、ミュンヘンオリンピックの強化選手になった時は電車に乗らず、往復とも歩いてました。そして8時から12時まで仕事をして、昼休みに10kmほど練習するんです。長距離走者と一緒に走ったり、一人で歩いたり。
[編集者]
ロードに出るんですか?
[蟹江]
うちは車のテストコースというのがあるから、そこでやるんです。
[編集者]
昼食はどうするんですか?
[蟹江]
パンなどを買っておいて、午後からの仕事の合い間にパクつくんです。ホントはいけないんですけど(笑)。仕事は5時が定時なんですけど、けっこう残業することが多いんですよね。
[編集者]
ほかの企業では、仕事を早めに切り上げて練習というところもあるようですが・・・。
[蟹江]
うちはそんなことはいっさいありません。スポーツをやるのは、あくまでも個人の自由ですから。
[編集者]
残業するぐらいだから、そんなことはありえないですね(笑)。
[蟹江]
仕事が終わって、帰りはずっと家まで歩いてくるんです。12kmだと、20kmの試合に出る時はちょっと足りないので、遠まわりして帰ってくるんですよ。
[編集者]
そうすると、ほとんど一人で練習ですね。
[蟹江]
だから、よけいにきついんでしょうね。少しぐらい身体がエラくても、人にひっぱられればやっちゃうでしょ。
[編集者]
指導者もいないんだから、独学独歩ということになりますか?
[蟹江]
試合に行って、審判の人にチョコチョコッと教えてもらうぐらいですねェ。あとは自分の経験を生かして、自分なりにやってます。
[編集者]
今までで、いちばんつらかった時期というのは・・・。
[蟹江]
今がつらいんですが(笑)、2年間ブランクがあったでしょ。
あの時は「このままやめた方がいいのかなあ」って思いました。日本記録が出てた時は、張りがありましたからね。
[編集者]
日本記録を出した時というのは、やはりうれしいものでしょ?
[蟹江]
優勝におまけがつきますからうれしいですよ。初めて日本選手権で優勝した時もうれしかったですね、新聞にデカデカと載って(笑)。
[編集者]
競歩界も近ごろ学生が台頭してきましたね。
[蟹江]
いいことですね。若手が育つのは。でも、学生はあまりこわいと思わないんです。彼らは練習量は多いけど、歩型が悪いんです。
とにかく、競歩は根気よくやった方が勝ちですけどね。
[編集者]
蟹江さんの、今後の目標というのは・・・。
[蟹江]
早いところヨーロッパへ行ってみたいんですよ。数年前から「行きたい、行きたい」と思ってるんですが。
[編集者]
まだ一度も行ってないんですね。
[蟹江]
そうなんです。近ごろ、若手は森川君に連れられて行ってるみたいですけどね。あと、日本記録を更新したいですね。50kmとか30kmだったらすぐにでも日本新を出せる自信があるんだけど、ヒザの方がよく治りきってないので、あまり長い距離だと無理がくるんですよ。
[編集者]
おいくつぐらいまで続けるつもりですか?
[蟹江]
現役でやるというのは、あと4〜5年でしょうね。健康のための競歩は一生続けたいと思ってますけど。
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ふだんは「いつまでこんなことやってるんだろう」、「なぜ練習しなきゃいけないんだ」と思う昨今だという。しかし、試合でいい記録を出すと、また闘志が沸き上がってくる。肝臓の薬を飲みながらそういう自問自答の日々が、まだしばらくは続くであろう。もちろん、一日でも長く日本の第一線として頑張ってもらいたいことは、言うまでもない・・・。
練習を気にせず飲みに行ける日がくるのを楽しみにしてるんです
お嬢さん二人が、蟹江選手の小さい頃のアルバムを開いて、「あ、これがお父さん」と、ニヤニヤしながら見入っている。
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[編集者]
亜木代ちゃんたちも、たまにはお父さんの試合見に行くの?
[亜木代]
うん、行くよ。
[蟹江]
スタンドから「お父さん、頑張って!」と大きな声で叫ぶんですよ。恥ずかしくってね(笑)。
[編集者]
最近は女子の競歩選手も出てきてますし、将来やらせたらいかがですか。
[蟹江]
何か健康的にスポーツはやらせたいと思いますけど、特に競歩をということはないですね。
[編集者]
蟹江さん、御結婚はいつですか?
[蟹江]
45年です。
[編集者]
奥さんもスポーツをやってたんですか。
[蟹江]
中学時代に体操をちょっとやってたらしいですが、あとは全然です。私が競歩をやってるということも結婚するちょっと前に知って、ビックリしたんじゃないですか(笑)。今は毎晩マッサージをやってくれるし、食事の面でも考えてやってくれるし、全面的に協力してもらってますけど・・・。
[編集者]
すっかり蟹江さんのペースに乗せられちゃったわけですね。
[蟹江]
私ですね、ふつう体重が55kgなんですが、試合の前には51kgに減らすんです。55kgでレースしても、とてもじゃないけど歩けないんですよ。だから試合1ヵ月前ぐらいから、練習量と食事制限で減量するんです。
[編集者]
そんな苦労があるとは知りませんでした。
[蟹江]
すぐに体重が増える体質なんでしょうね。だから、休日でも練習をやらないわけにはいかないんです。そのうえ、朝か昼か食事を1回抜いたり・・・。1kgでも増えると歩いてすぐわかりますからね。
[編集者]
ボクサー並みですね。
[蟹江]
試合の前日、ヘルスメーターに乗るのがこわいですよ(笑)。
でも、ボクシングが好きでよく見るんですが、ファイティング原田の減量なんかと比べたら、私なんかまだまだラクですものね。
[編集者]
それにしても大変なことですよ。
[蟹江]
夏は簡単なんですよ。仕事で汗びっしょりかきますから、すぐに体重が減るんです。
[編集者]
そういう時の食事は奥さんまかせですか?
[蟹江]
私、買物が好きで、休みの日なんかよくスーパーに行くんです。そこでみつくろって買ってきますけど、作る方はやりません。
女房がうまく作ってくれますので(笑)。
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ここは、ぜひとも奥さんに話を聞かねばなるまい。台所の方でかたづけものをしていた玲子さんに同席してもらう。
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[蟹江]
しばらく前、女房が市民マラソンに参加するというんで、家族4人でジョッギングしたことがあるんですよ。
[編集者]
いいですね。
[蟹江]
子供たちも2kmぐらいなら走っちゃいますよ。
[編集者]
いいコーチが身近にいるからいいですね。
[玲子]
厳しいんですよ、この先生は(笑)。
[編集者]
ところで、このお父さんは家庭サービスの方はいかがですか?
[玲子]
こちらからそんなこと言いませんしね・・・。
[蟹江]
前は、500mぐらい離れた行楽地に女房と子供を電車で行かせておいて、私は歩いて行って向こうで落ち合うなんてこともしましたけど。
[編集者]
お嬢さんたちには甘いババなんでしょ?
[玲子]
ええ、そりゃあもう(笑)。
[蟹江]
私の母校に今娘たちが通ってるから、校歌は同じなんです。
だから、一緒に風呂入って歌うんですよ(笑)。
[玲子]
将来はこの家の両側に娘たちを住まわせるんだなんて言う時のお父さんと、試合の時のお父さんは、全然違うんですから(笑)。
[編集者]
お父さん、こわい?
[亜木代]
こわい時もあるし、やさしい時もある。
[編集者]
どういう時、こわいの?
[亜木代]
悪いことをした時。
[玲子]
主人は自分にきびしい人ですから日生常活でダラダラしているということがないんですよ。だから、おこる時というと、そういう時ですね。
[編集者]
奥さんも、ずっと「競歩」、「競歩」の毎日でしたね?
[玲子]
結婚する前は、こんな生活になるとは思ってもみなかったんですが・・・(笑)。でも、学ばせてもらった点が多かったですね。
[編集者]
いい記録を出した日は喜んで帰宅するんでしょ?
[玲子]
心の中ではうれしいんでしょうけど、あまり表情に出さない人だから・・・。照れて帰ってきますよ。
[蟹江]
試合が終わった日はうれしいですよ。ホッとするのはその日だけですから。その一時が楽しくって、続けてるようなものです。
翌日からは次の試合目指しますからね。東京で試合が行われた日なんか、帰りの新幹線でビールを飲むのが楽しみで・・・(笑)。
[編集者]
蟹江さん、飲む方は?
[蟹江]
あまり飲みませんね。友人と飲んだりするの好きだから行きたいんだけど、ふだんは練習があるので断わってます。練習を気にしないで飲みに行ける日が来るのを楽しみにしてるんですが・・・(笑)。
[編集者]
貴の花の引退じゃないけど、そういう日が来たら、奥さんとしてはやはりさみしいでしょうね?
[玲子]
さみしいと思いますね。ごはんを茶わんにしっかりよそって、お代わりなんて日は年に数回しかないんですが・・・。毎日、そうやって食べられるようになったら、うれしいような、悲しいような・・・。
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40歳にもなって、こんな摂生をしているとは・・・。やはり一流選手の道は厳しいものである。
アマチュアには引退はないと言うが、蟹江選手が“人並み”に酒をくみ交わせるようになった時、奥さんとお嬢さん二人は「お父さん、ごくろうさまでした」と、暖かい団らんの場をつくってくれることだろう。
蟹江選手の競歩歴
■ 昭和43年6月(1968年6月)
27歳にして、日本選手権20kmで競歩界にデビュー。1時間56分35秒で12位。
■ 昭和44年〜46年(1969年〜1971年)
日本選手権20km競歩で3年連続優勝。昭和46年には、昭和47年に行われるミュンヘンオリンピックの強化選手となる。
■ 昭和47年6月(1972年6月)
ミュンヘンオリンピックの最終選考会となった日本選手権は途中棄権で、オリンピック行きの夢断たれる。
■ 昭和47年7月〜昭和48年(1972年7月〜1973年)
ヒザ痛と腰痛で競技から遠去かる。原因は練習のやりすぎ。
■ 昭和49年5月12日(1974年5月12日)
中部実業団陸上5000m競歩で復帰。まだヒザが痛かったが、優勝する。
■ 昭和49年10月(1974年10月)
茨城国体の20000m競歩に出場。4位だったが日本新。
■ 昭和50年10月(1975年10月)
三重国体10000m競歩で2位。44秒06は自己ベスト。
■ 昭和51年5月(1976年5月)
5000mで21分28秒4の日本新。
■ 昭和51年10月(1976年10月)
全日本実業団の5000m競歩で21分22秒8の日本新。佐賀国体10000m競歩では44分09秒4で優勝。国体で初めての栄冠。
■ 昭和52年1月1日(1977年1月1日)
この年から名古屋で元旦競歩が始まる。10kmで、43分50秒0で優勝。以来、今年の元旦競歩まで毎年優勝。
■ 昭和52年5月22日(1977年5月22日)
5000m競歩で21分16秒0の日本新。自己ベスト。
■ 昭和52年9月(1977年9月)
過労で2週間ほど入院。退院して10日ぐらいで青森国体に出たが、4位に終わる。
■ 昭和53年4月(1978年4月)
輪島の全日本競歩で20km 1時間31分14秒4の自己ベストを出し、優勝。
■ 昭和54年10月(1979年10月)
日本選手権20km競歩で8年ぶり優勝。
■56年1月1日(1981年1月1日)
名古屋の元旦競歩10km競歩で43分30秒0の日本新。