編集後記 1996年7月 アトランタオリンピック
● 7月19日にアトランタ五輪が開幕しました。
このオリンピックには当所を利用していた選手がかなり参加しています。
その中でバスケットボールのM選手は、もっとも印象に残っている選手です。
彼女は平成2年6月11日、台湾遠征中の試合で左膝の内側側副靭帯を損傷しました。
同年6月13日に当所に入院して、内側側副靭帯の縫合手術を受けました。
彼女の監督、トレーナは、将来を期待される選手だけに、この事態にはかなり深刻でした。
当所には約2カ月間入院していました。
退院後の経過は順調で、日本リーグMVP賞などの数々の輝かしい栄誉(各種タイトル)を受賞しました。
今回のオリンピックで、彼女は大活躍しました。
準々決勝のアメリカ戦では、一番背の低い彼女がアメリカ選手にはじきとばされる場面もありましたが、粘り強いプレイを見せてくれました。
そんな彼女も、当所入院中には泣きべそをかいて泣いていた時があったんです。
復帰できるかとても心配だったのだと思います。
実家が常滑市で、スポーツ医・科学研究所に近く、家族の方がよく面会に来られていました。
よく晴れた日曜日には家族といっしょに芝生に座って団らんしていました。
彼女に洗髪してあげたり、 足を洗ってあげたりしたこともありました。
こんなことに思いを馳せながら、テレビで彼女のオリンピックでのプレイを観戦していますと、深い感慨が込み上げてきます。
● アトランタオリンピックでは、日本サッカー選手が大活躍しました。
21日現地マイアミで行われたリーグ予選の1回戦は世界最強のブラジルとの対戦で、1−0で勝利し、世界を仰天させました。
どの新聞も奇跡の勝利と報じました。
そして決勝トーナメント進出をかけた日本は、ハンガリー戦で死闘を演じ、 ロスタイムに入って、2ゴールを決め3−2の大逆転勝利を収めました。
本当に素晴らしい試合でしました。
心から拍手を送りたい気持ちで一杯です。
でもちょっと気になることがあります。
それは、今年の2月9日に当所で後十字靱帯再建手術を受けたO選手のことです。
ケガさえしなければ、彼も日の丸をつけて同じ舞台に立っていたはずでした。
彼はどんな思いでこの五輪サッカーを観戦していたのでしょう。
そんな彼も手術後5カ月半目の7月20日のジュビロ磐田戦に出場して、無事に試合復帰を果たしました。
本当におめでとうございます。
O選手、けっして焦らないで、一歩一歩着実に復活への足取りを掴み、前に前に歩んでいって欲しいと切に願います。
● アトランタ五輪出場をかけて平成7年10月に膝の前十字靱帯の再建手術を受けたフェンシングの女性選手が、平成8年3月に行われた国内選考会で4位となり、惜しくもオリンピックに出場することができなくなりました。 「きっと無念な思いだったろう」と彼女の身の上を案じましたが、2カ月前に挨拶にこられたときの彼女の顔をみて、安心しました。
とてもすがすがしい表情をしていたからです。 そこには、「やれるだけやった」 という充実感があったように思います。
オリンピックに出場することは、もちろん素晴らしいことですが、 何かの目標に向かって一生懸命に取り組む姿勢が素晴らしいんですよね。
彼女に万歳したいと思います。
● アトランタ五輪の女子板飛び込み決勝で、元渕 幸選手が気迫の感じられる演技を演じ、自己最高の6位に入賞しました。
4回目の演技で2位に浮上、もしや史上初めてのメダル獲得かと期待しましたが、最後の5回目の演技で細かなミスがでて、6位入賞となりました。 日本女子としては60年ぶりの人賞だそうです。
そんな偉業を成し遂げた彼女も、実は平成7年3月に肩の故障で当所に診察に来ているのです。
当所を利用した選手がオリンピックという大舞台で大活躍している姿を見るのは、本当に嬉しいことですね。
● オリンピックでの名言、 陸上の短距離走の伊藤浩司選手が200mの2次予選を突破し、日本選手として史上初めて準決勝へ進んだ時に語った言葉、「歴史の1ページにまず自分の名前が残ったことは嬉しいことです」。
陸上の中距離走のセペング選手 (南アフリカ共和国)が800m決勝で2位になった時に語った言葉、「記録は自分のものですが、 メダルは国民に捧げます」。
いろいろなドラマを生むオリンピック、 感動をあたえてくれるオリンピック、 私たちは、 オリンピック選手から学んだり、励まされたり、勇気づけられることがたくさんありますね。
旧 スポーツ医・科学研究所
ナースセンターだより1996年6月
元 診療部 主任看護士 安藤秀樹
ナースセンターだより
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